作成日: 15/07/23
修正日: 15/08/04 (『距離が無限小でも線量は無限大にならないことの問題提示』と『線量を想定することの課題を提示した例』を追加)
修正日: 15/08/17 (『線源に近づくことでどの程度線量が増えるのか?が問われた他の例』を追加)
放射線安全に関する誤解?
このコラムでは、放射線安全に関して誤解と考えられることを加藤先生が解説されています。
誤解はコミュニケーションを成り立たせようとしている受け手側の推論から生じるものであるそうですので、コミュニケーションの観点からも考えてみましょう。
誰に向けた記事なのか不明確だと思う。
コラムを読まれて疑問を持ったあなたのための記事です。
あなたの疑問を放射線相談室にお寄せ下さい。
放射線の被曝量は線源からの距離の 2乗に反比例して少なくなる?
真空中の点線源から放出されるガンマ線だと、単位面積あたりの放射線粒子の数が線源からの距離に依存します。
線源から遠ざかると距離の二乗に反比例して単位面積あたりの放射線粒子数が小さくなるのは、球の表面積と距離の関係から自明ですね。
逆に距離があまりに小さくなると、放射線の粒々としての性質が効いていくと言いたいのかしら?
夜空の星は何故見えるか問題ですね。
検討すべき課題は?
指先に放射性物質がついた場合を想定していますが、この想定で考慮すべきものは何か?や、この想定そのものが適切か?が吟味の対象になるのかもしれません。
β線にも考慮?
指先に付着した放射性物質から受ける皮膚の基底細胞内のある局在部位の放射線の量を考えるのであればβ線の考慮も不可欠だと思う…
線量評価上は、β線も放出する核種の血管投与時の皮下組織への漏れが生じた場合と同じ構造ですね。心配しているのがβ線であるとすると、そこへのケアもあるとよいと思う。
β線にも考慮した例
プールサイドを裸足で歩くことでベータ線により受ける放射線の対策
内部被ばくにも考慮?
外部被ばくだけではなく食べてしまった場合にどうかという懸念ももたれるかもしれない…
内部被ばくへの考慮も必要と言うことですね。線量評価上は、ある程度の時間、線源を持ち続けた場合と考えてもよいかもしれない。
内部被ばくにも考慮した例
木登りの安全性
その他の核種にも考慮?
でも、そこにα核種があったらどうしようと考えるのが親心かもしれない……
皮膚からその放射性核種が吸収されて内部被ばくするかもしれないと心配する場合の、β線よりもより飛程の短い放射線へのケアですね。
距離が近いからと言っても単純に無限大にはならないけど、放射線の種類による距離依存性にも配慮して欲しい…
距離が無限小でも線量は無限大にならないことの問題提示
“指先についた微小汚染”についても言及しておきながら、「線量が無限大」と考えてはなぜだめか、について説明しなかったのは、読み手に“考えてもらうこと”を期待してのことだそうです。
線量は単位質量あたりのエネルギー量なので無限大にならないのはあたり前だと思う
線源から発せられる放射線粒子の単位時間当たりの放出数はもちろん有限であり、受けるエネルギー量が無限大となることはありえないのは放射線が粒々の性質も持つからですね
でも指先についた放射性物質などを不安に思う気持ちの由来はもっと別のところにあるようにも思う…
気持ちの問題をじっくりと扱うべきではないかしら…
線源に近づくことでどの程度線量が増えるのか?が問われた他の例
地中に埋まっていた線源に近づいた場合に、曝露量としての各臓器の等価線量を統合した実効線量を考えた場合の「線源の近くでの姿勢の違いは、体に入ってくる放射線の数に大きな影響を与えないからです」となる説明が求められたことの背景も同じ文脈だと思う。
この場合、放射線防護の考え方からは、姿勢を考慮した「実効線量」との考え方は妥当なのかしら…
実効線量は、規格化していることが前提だけど、どこまで規格化するかの問題ではないかな。
話を元に戻すと、髪の毛や衣服について放射性物質による実効線量を考える場合も、同じ構造となりそうです。
放射能には“半減期”というものがあるので、幾ら時間が経っても放射能というのは永遠に消えることがない?
ごくごくまれな確率で、ある一個の放射性核種がなかなか壊変せずに、残り続けるので、放射性核種の数がゼロにならないことを心配するのが親心という想定だとすると何か違う気がする…
ゼロリスクを人々が追求していると考えるのは専門家の幻想という話でしょうか。
放射線の(被曝管理のために国が定めた)管理基準は、放射線の種類や被曝の様態の如何を問わず、適用されるべきものである?
原発事故後の対応がご都合主義的なものであり原理原則に則っていないのではないかとの批判に答えようとしていると思うけど、難問だと思う。
線量の基準の復習
原発事故以降に一般の方々が受ける線量の基準
「理解できる違い」と「受け入れがたい違い」の「違い」
自然放射性物質による放射線曝露の制御の考え方が国によって異なっていることと、原子力発電所の放射性物質に由来した計画時と現存被ばく状況での放射線曝露の制御の基準が異なることとは意味が違うと思われそう…
与えられた条件下でどのような方策を取るかの話であるとしても、その前提が納得されないと話し合いにならないのでは…
リスク認知は主観的なものだけど、そのリスクをどのように受け取りたいかが人により異なることにも配慮して欲しい…
難問だけれども、これまでのリスク・コミュニケーションの取り組みでは、立場を超えて力を合わせられることが確認されています。
コミュニケーションを成り立たせるための前提となるもの
欠如モデル
影響を表すこととリスクを表すこと
測定とその品質
測ればよいということではなく、測定では質が重要で、測定を考える場合には、品質の要求基準が満たされているかどうか確認するのは重要だと思う。
それが測定の基本ですね。「国は品質の要求基準を示すべきと考える」とありますが、ここはいかがでしょうか。
食品の検査でのスクリーニングでは、確保すべき測定の質が提示され、その質を確保するためのプログラムが提供されているので、測定所で利用するとよいと思う。
「それが国民の目に見える形で示されていないことは、重大であると考える」とあるのは、いかがでしょうか。
外部被ばく測定でも不確かさの評価は不可欠なので、それを見えるようにすべきということですね。サーベイメータと個人線量計の測定の違いへの懸念は、これとも関係そうです…
関係を作って測定の質を一緒に確認することが必要かもしれませんね。
測定の対象となる実用線量
これら実用線量は ICRUの導入した人体模型の定点における等価線量として定義され とあるのが追えません…
「等価線量」ではなく「線量当量」ではないかな。
個人線量の評価には“実際上人体正面からの入射が多い”ことが考慮されている とあるけど、「考慮されている」というよりも、むしろ作業環境管理上の「前提」で、実用量として値付けする際に整列・拡張場を想定するという観点では、周辺線量当量と個人線量当量には違いがないと思う。
周辺線量当量と個人線量当量の違いはfree airかon phantomで計測するかの違いということですね。
それだけの違いなのに何故スラブと球を使い分けているのか理解できずに眠れなくなったあなたに多田順一郎先生の丁寧な解説をお勧めしたい。
その他の違い?
周辺線量当量はサーベイメータで測るもので測定時に後方散乱を考慮しませんが、そもそもが整列・拡張場を考えているので、(測定器に置く向きを考慮しなくてもよいようにするために?)測定器の応答が無方向性であることが重要であると聞くけど、そもそも、「対応する整列・拡張場」を考えることがよく分からない。
線量の値付けを考える場合には、理想的な状況を考える必要があるのでは…
実用量もそもそもバーチャルな量だと思うけど、現実の複雑さへのあてはめの逡巡が個人線量測定への疑念の由来の一つではないだろうか…。いずれにしても、線量測定では、放射線場の特性把握が重要ということだと思う。
知りたいのは追加線量?
「職業被曝の管理が、いわゆる“追加線量”でなされるのに対し、公衆の被曝管理は環境保全を手段として行ってきた。その際、環境放射線の線量率が“追加線量”込みで行われるのが通例であることも世の混乱に輪を掛けている。」とあるのはいかがでしょうか?
ある線源の管理を考えた際に、その線源に由来した線量を考えるのは当然だと思うけど、原発事故後だとその場のバックグラウンドを引くのが容易ではないと思う。
それはエネルギー弁別するとある程度可能かも…
自然による放射線をより多く曝露している場合や何らかの事情があってより曝露した場合の追加曝露をどこまで許容するかで違いがあるかの議論は、オフセットできているかどうかにもよるではないかしら。
再び、測定とその品質
計量証明事業登録の対象にすべき?
放射線計測の品質保証に国はより関与すべきという主張がなされていますが、いかがでしょうか。
計量証明事業登録の対象にすべきということかしら。
どのような論点がありそうでしょうか?
現行法令上はその対象にならないとなるようですので規制強化するように制度整備するかどうかですね。
どのような論点がありそうでしょうか?
規制強化するのであれば、それだけの価値があることを示す必要があるのではないかしら。
他にポイントはないですか?
実現可能な方法を提案する必要があると思う。
参考資料
社団法人愛知県環境測定分析協会.計量法による計量対象物質における放射線測定の届出義務について (見解のお伺い)
放射線測定は生命に関わる=計量法で規制するべき(2011年10月23日)
問われてくる計測の信頼性、その確保のためにーJCSS制度における放射線・放射能の標準、その供給と利用の現状ー
内部被ばくと外部被ばく推計の不確かさ
受ける時期により同じ線量であってもリスクが変わり得るというのはその通りだと思うけど、預託線量は生涯にわたって均等に受けるものでもないので、同じ預託線量でもより未来に受ける可能性が高いかどうかは核種によりそうです。
外部被ばくでも何らかの観測量を元に受けた線量を推計することを考えると空間的・時間的な変化もあるように思ってしまう。
内部被ばくの方が安全係数が大きいとは具体的に何を指しているのだろう?
セシウムの生物学的半減期の長い成分に着目した研究が第52回アイソトープ・放射線研究発表会で発表されていました。
谷幸太郎ら.福島第一原子力発電所事故後の緊急作業者を対象としたCsによる内部被ばく線量の評価
単位線量あたりのリスクの線量依存性
線量あたりのダメージが物理化学的な作用にプラスして生物的な修飾を受け、生物的な修飾は線量に単純に依存しないというアイデアに基づきリスクを仮定すべきという主張ですね。
プラス材料が欲しい方には歓迎すべき考え方であっても、心配している方には希望的な観測ではないという根拠も求められそう…
それを支持する疫学研究例があるかどうかがポイントになりそうです。
ドイツのSSKとは反対側の見解ですね…
リスクと向き合う困難さ
それが小さいリスクであったとしても、子どもがそのリスクを心配するのを心配するのも親心…
あらゆる対策が全く無意味で何も警戒する必要はないのかと予防焦点モードの時に、どのようなメッセージが有効かという問いに対して、そのモードになっていることへの理解も必要ではないでしょうか
でも、それが例え小さいリスクであったとしても、リスクと向き合うことの困難さがあることを理解して欲しい
線量を想定することの課題を提示した例
第42回 放射線防護研究会では加藤理事長から原子炉からの中性子のスカイシャインに関する記事も配付されました。
1980年06月04日毎日新聞東京版朝刊1面トップ記事だそうです。
『原発から中性子漏れる』「天井透過降りそそぐ 監視対象外だった」「人体には影響のない量」とあります
当時はさぞ問題となったのではないでしょうか。
敷地境界のスカイシャインによる中性子を加藤先生らが感度と精度をよくして測られたもので、当時の審査では十分に検討していない放射線の到達経路に関して検証したものとの位置づけだと記事にはあります。
きちんと考えて実測して確認した例だと思う。
加藤先生の例と異なり定量性に限界がありますが、エックス線検診車で確認している例がありました。
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